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たまには日本語で書いてみる。
最近つくづく思う、
わたしは、いろんな意味で内面に向かって生きている。
自分の周りには何か囲いというか天井がある、それらの存在を意識してるのかしてないのかは、私にも分からないのだけど。
屁理屈みたいなこと言うけど、懲りずに聞いてね。
仮に、真ん中に「自分」っていうものがあるとする。
それを幾つかの丸が囲ってて、その丸たちは他者。家族とか社会とか他人とか。
ペイントで絵を描いてみた。苦笑
人間って、年を取ると行動範囲が広がって、つまり、丸の守備範囲が広くなるとおもう。
家族→親戚→近所→学校→一般社会、みたいなやつ。
同じようなのを、現社の倫理分野でやった気がするし。
これって、一般的に中心から外側への守備範囲が広くなることを指すんじゃないかしら?
最初は自分とその周りしかわかんないんだけど、だんだん他者のことも見えてきて、外の方へ目を向けられるようになる、ってイメージ。
だから、中から外へ、どんどん発進していく感じ。アクティブだわー
こっちは、外側への守備範囲は広がるんだけど、そこから外へ行くってよりは、常に中心にベクトルが向いちゃう。周りが見える程、自分って何だろう、なんて考えちゃうイメージ。
外から中へ戻ってきちゃう感じ。まあ、外へ進んでることは進んでるから一概には言い切れないけど。
わたしが「内側に向かって生きてる」って思う所以は後者のイメージにある気がする。
高校生になって、アメリカのことかじって、社会のことを考えてみて、ちょっと大人になったような気がして調子に乗って、大学生になって、また新しい友達増えて・・・
明らかにわたしの行動範囲は広がってる。広がってるけど、でも、わたしの中のベクトルは内側を指してる。物事が分かれば分かるほど、「自分」って何なの?なんて、考えちゃう。
私的な哲学(そんなかっこいいものじゃないけど)では、"「自分」って何なんだろう"なんて考えるのはナンセンスなの。だって、自分は自分だから。
「自分」を主観的にみたら「わたし」。友達からみたら「あなた」。第三者からみたら「彼女」。誰に見られるかによって「自分」なんて変わるものなのに、それを"何なんだろう"なんて考えるのは好きじゃない。だから、「自分探し」ていう言葉もあんまり好きじゃないの、なんか逃げてるみたいだから。
それでも、「自分」を確立したくてしょうがない。
無理だって分かってるし、無意味だとも思うんだけども。そんなのつまんない。
いつか友達に「見るたびに違う人間でいればいいじゃん」って言われたけど、そう割り切れないから私はまだまだなんだろうなー
どうしても私の中にある尺度が私自身を計って苦しめてる、自意識過剰ってやつね!
いつのまにか習得した「こうあるべきだ」っていう価値観が、私のベクトルを内側へ、内側へと向けさせてる気もしないわけではない。意外と、私の守備範囲は年を取るごとに狭まってるのかもしれない! :P
まあ、だから何なんだって話だけど。
わざわざ図を描く必要はあったのだろうか?笑
意外と、人間は内側へ内側へと進むものなのかもしれないね、そう思えてきた。
流動的な社会の中にいるから、自分の存在くらいは確実なものにしたいのかも。だって流されちゃいそうで不安だもん、そう感じること無い?あるよね?あるって言って欲しいな。笑
急にそんなことをしゃべりたくなりました。
おしまい。続くかも。 :P